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華佗伝記 かだ   著 今村神鍼

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名医華佗かだは字(あざな)を元化(げんか)といい、沛国はいこく(現在の中国南部安徽省勃県)の人である。ここで徐州一帯に師を求め学び、多くの経書(中国古代書)に通じていた。沛国の宰相の陳が彼を考廉に推挙し、太尉の黄が彼を官職につかせようとしたが、すべてこれ等を受けなかった。  華佗は養生の道に明るかったので、彼を知る当時の人々は彼がすでに百才位ではないかと思っていたが、外見はまだ四十才代にしか見えなかったという。  又薬に通じていて、彼が疾病を治療するのに用いる薬の組み合わせは数種類の薬物の範囲を越えることがなく、彼の頭の中にはそれ等草薬の組み合わせと分量がはっきり記憶されていた。華佗は目分量で薬を量り、天秤でそれらを量る必要がなかったという。よって患者は水を加えて煮て飲むだけでよく、華佗はその薬の副作用や飲み方を病人に教え、立ち去った後にはその病はすぐ全快するという具合だった。  華佗がお灸を用いる際もその穴位(つぼ)は1、2カ所を越えることなく、またお灸の壮数も7、8壮を越えることなく、病はみるみるうちに治っていった。  また鍼を用いるときもその穴位は1、2カ所を越えず、華佗はよく鍼を病人に刺すときにこう言っていたという。 「この鍼の刺激感が身体の悪いところまで来たと感じたならばすぐに知らせてください。」 そこで患者が「先生来ました。」というと華佗はすぐに抜鍼し、患者の病もすぐに治ったという。  またもし疾病が体内奥深くに長期にわたり積み重なり、結ばれていたなら、鍼灸や薬の効果もそこまでは及ばないので彼は自ら手術した。  病人に彼の発明した麻沸散マフツサン(曼陀羅華、という植物を主成分とした麻酔薬で江戸時代日本の和歌山の華岡先生がこの方法を用いて乳癌の手術をした事で有名。)を酒で服用させると、すぐに酒に酔ったように人事不承に陥り何の感覚もなくなり、全身麻酔下で皮膚を開き破り病巣を切除した。   彼は疾病がもし腸の部位にあったなら患部を取り出し、それを薬液で洗い病巣部を切除し再び縫合しなおし、さらに腹部の傷口を縫合し創傷の癒合を促進させるため神膏と呼ばれる薬を塗布した。その後4、5日で患者の病状は好転し1カ月以内に患部は癒合し手術は成功したという。  ある時郡主の部下で下級官吏の兒尋(ニイシュン)と李延(リエン)が一緒に華佗の所に治療を受けに来た。二人とも頭痛、発熱があり、罹った病もちょうど同じであった。、  その時華佗曰く「兒尋さんは内実である、李延さんは外実である。よって彼らを治療する方法もちがうのだ。」とこの様に言い、すぐにちがう薬を選び分けて二人に与えた。次の日の朝には二人とも病はすでに全快していたという。  またある時、華佗が道を歩いていると喉がつまって、食べ物を食べたいのだが飲み込めない、という一人の病人に出くわした。彼の家族はその病人を車に乗せ医者に行く途中だった。華佗はこの病人の苦痛に満ちたうめき声を聞くと車を前に止めさせ診察し、そして病人にこう言った。 「さっきあなた方がやってきたこの道沿いに一軒の餅(ピン中国のお好み焼きのようなもの)を売る店がある。そこにニンニクのすりつぶしたものとお酢があるのでこれを一緒にして三升服用しなさい。そうすれば病気はすぐ良くなるでしょう。」、  すぐさま華佗が言ったようにすると病人はすぐ蛇のように大きな寄生虫を吐き出した。それから彼等はそれを車の端に引っかけお礼を言おうと華佗の家に向かった。  さすがに華佗はまだ家には戻ってはいなかったが、彼の息子が華佗の家の門の前で遊んでいた。この息子は人が来るのを見つけるとまるで独り言のようにこう言った。 「たぶん僕達のとうさんに出くわしたな、車に引っかけてある寄生虫でそれがわかるよ。」  さて息子の案内でこの病人一行が家の中にはいると華佗の家の北の壁にはなんと、この蛇のようなおどろおどろしいしろものが十数匹も掛けてあったそうな。(下した寄生虫かそれとも薬用の本物の蛇だったのかも?)  ある時、またとある郡主が病を患った。華佗はこの病人は一度おおいに怒り狂うとよくなると考え、彼から多くの治療費の金銀を受け取りながらもいっこうに治療しなかった。そしてあげくのはてにこの郡主のもとをだまって去り、さらに彼をおおいに馬鹿にして、ののしった手紙を残していった。これを見てこの郡主はさすがに大いに怒り狂い、人をやってこの華佗を追いかけ捕まえて殺せと命じた。ところがこの郡主の息子は華佗のこのはかりごとをすでに知っていて華佗と通じていたので、父の部下に華佗を追いかけて行く必要はない、とこれをさとした。郡主の怒りはついにここに頂点をきわめた、まさにその時、彼はどす黒い血を数升も吐き出したのだった。それからしばらくたって郡主の病気は治癒したのである。  またある医官の長がある日、気分が悪くなった。華佗がこれを診て曰く。  「先生の病気の根はかなり深いところにありますので、腹部を切開しなければなりません。しかしもしこれをやっても先生の寿命は天寿によってこの10年を越えることはないでしょう。ですからその10年のうちにこの病気が先生を死に至らしめることができなければ、この病気を先生は今後十年ずっと我慢しなければならないことになります。ところがあなたの天寿と病死する時期が一緒になっているので、わざわざ腹を断ち割って手術する必要もないかと思いますが、、、。」  しかしこの医官はもうこれ以上病気の苦痛に耐えられなかったので、開腹手術を要求した。華佗はついに手を下してこの病気を治し、疾病自体は全快したが、しかしそれより10年後ついに彼は自身の寿命で死に至ったという。  広陵の太守の陳登という者が病気になった。胸中が煩悶し、顔が赤く、食欲がない。華佗は彼の脉をとり、しばらくしてこう言った。 「太守閣下の胃の中に幾升かの寄生虫がおります。将来これ等は放っておくと腹部に潰瘍を形成するに至りましょう。これは生の魚の肉を食することによって引き起こされたものです。」  こういうとすぐに二升の煎じ薬を配合して、まず一升を服用させしばらく時間をおいて更に全部を服用させた。さてその後食事を食し終えるほどの時間がたった頃、(20分から30分ぐらいであろうか)彼は3升ほどの寄生虫を吐き出した。その色は赤くまだうごめいており、その半身は赤身の魚肉を千切りにしたものに似ていた。これにより太守の病苦は取り除かれ、そのあとで華佗はこう言った。 「この病気は三年後に又発病します。良い医者に出会えれば救うことが出来ますが・・・さもなくば・・・。」  さて三年後華佗の言った通り発作が起こったが、その時華佗は太守のもとにいなかったので彼は華佗の言ったとおりに病死してしまった。  さて三国志で有名な魏の曹操がこのような華佗の名声を聞きつけ 「すぐに華佗を呼んで、いつもワシのそばにおくように。」 と部下に命令した。 曹操は頭風(偏頭痛)という病を患っており発作が起こる度に難儀していたが、華佗が鍼で膈兪穴(足太陽膀胱経)を刺すとすぐに発作はおさまった。  その後、李将軍の妻の病気が重く、その時強く華佗の往診を望んだ。 往診に来た華佗曰く。 「閣下、これは流産ですが胎児がまだ子宮内にあります。」  将軍はこれはおかしいと思い。 「聞くところによると流産は流産だが胎児はもうすでに出ているという事だが・・・。」 「しかし脉象を診る限り胎児はまだ子宮内です。」 「それはおかしい。」 李将軍は華佗を信用しなかったので、華佗はこの場をただ離れるしかなかった。  華佗が帰って後、李将軍の妻の病気は幾分か良くなった。  しかし百数日後、又発作がおこり華佗が呼ばれた。華佗曰く 「この種の脉象は胎児が子宮内にあり、双子であることを示すものです。まずひとり目の胎児が出たときは出血が多く、その後のあと一人はまだ出ていません。奥様はご自分でも気づかれず、まわりの者も気づかなかったので出産を終わってしまったのです。それで後の一人は出てくることが出来なかったのでしょう。おなかの中で死に絶え、血もそこにめぐりませんでしたので乾燥して子宮の中のちょうど腰椎の内側に付着し、これ等がキリキリ腰背部を苦しめたのです。今煎じ薬を早急に与え鍼灸治療を施せば、この胎児は必ず出てくるに相違ありません。」とこう言った。  婦人が薬を飲み鍼灸治療を受けると、出産の時のような激痛が腹部を襲った。 「この胎児は乾燥してだいぶ時が経っていて自分で出てこられないので、この様なものは必ず人の手を借りなければならないものです。」  と言うとそれを自分の手で取り出した。  見ると一つの死んだ男の子の胎児であった。手足は完全で顔色は真っ黒、大きさは大体一尺位あったという。  有名な華佗の卓越した医療技術は凡そこの様なものであった。彼はもともと中国の古典書の学術の人であったが、人々は彼のことを医者として認識していた。この事については華佗はいつも後悔していた。  後に曹操が自ら国事を処理しはじめて、病気を患いそれが重くなったとき、華佗にもっぱら診察をさせた。華佗曰く 「この病はすでに治癒不可能な領域に達しております。いたづら治療しても歳月のみを費やすだけです。」  華佗は長い間自分の家を離れていたのでとても家に帰りたくなった。それで曹操にまたこう言った。 「実は今、自分の家からの手紙を受け取ったのですが、一時ちょっと家に戻りたく思います。」  その後、家に帰ってからも妻が病気になったとして曹操の元へ戻ろうとはしなかった。さらにまた何度も休暇を延長して戻らなかった。曹操は何度も手紙を書いて彼を呼び戻そうとしたが無駄だった。  また郡県の役人に華佗を都に戻らすように命じた。しかし華佗は自分の技術のみを頼り禄をはむのを好まなかったのでやはり戻ろうとはしなかった。曹操は大いに怒り、部下を派遣し、もし華佗の妻が本当に病気ならば小豆を40斗やり彼の休暇も更に延ばしてやることにした。しかしもしうそを言って休暇を取って人をだましていたなら逮捕して都まで引っ立ててくるようにこれに命じた。  しばらくして華佗は逮捕され許昌の監獄に護送され引き渡された。そののち殴られ、拷問されとうとう罪を認めてしまった。  その時有名な曹操の軍師の荀彧じゅんいくがこう願い出た。 「華佗の医術はまさに高名であります。これはつまり人々の生命と大変関係のある重要人物といえ、この度のことは大目に見て、あまりお怒りなきよう。」しかし曹操はこう答えた。 「天下にこの様な卑しい人物を見たことはない。」 といい華佗を獄中で死なせてしまった。華佗はその臨終の時一巻の巻物を取り出し獄吏に渡しこう言った。 「この本は人命を救う物である。」  しかし獄吏は曹操の怒りを恐れてこれを受け取ろうとはしなかった。華佗もむりにこれを受け取らせようとはせず、しかたなく火を持ってこさせこれを焼いてしまった。いつもこの様に重要な医典は失われるのである。  華佗の死後、曹操の持病の頭風は未だに除かれていなかった。曹操は言う。 「華佗はこの病気を治すことは出来た、しかし奴はワシのこの病気を治療せず残しておき、自分の価値を高めようとしたのだ。もし俺があいつを生かしておいても、奴は最終的には俺のこの病の病根を絶つことはしなかったろう。」、  しかし後に彼の愛児である倉舒の病気が重くなったときにため息をついてこうも言ったという。 「ワシは華佗を殺した事をいまもって後悔している。この子を黙って死なせるしかないとはのう、とほほ、、、。」  華佗が曹操に仕えてから最初の頃、軍人の李成が咳嗽病を患い昼夜眠れず、更に時々膿血を吐いた。この種の病状を華佗に聞いたところ、 「あんたの患ったのは腸瘍(虫垂炎)である。咳が出たときに吐き出した膿血は肺の中からの物ではない。私が貴方に2銭、粉末の薬をあげるので、これを飲んだら2升の膿血を吐くでしょう。これを吐き終わった後すぐに気持ちよくなります。こののち良く養生して1カ月後に病状は好転し1年は健康に過ごすことが出来ます。18年後にまた1回小さな発作があるかもしれませんがこの薬を飲んだらすぐに全快します。しかしもしこの薬がその時なければただ死ぬのを待つばかりという事になります。」といって更に2銭の薬を彼に渡した。  李成が薬を得て後5、6年の後彼の親戚の一人が李成とまるでうりふたつの病気を罹った。彼は李成にこう言った。 「あなたは今身体がこの様に元気であるが、私はもう死にそうである。あなたはどうして非情にも自分は病気でもないのにその薬を隠して私の死ぬのをただ見て見ぬ振りをされているのか。どうかそれを私に先に飲ませて下さい。病気が良くなったら、華佗に言ってそれを再び手に入れましょう。」  ついに李成は薬を彼に与えた。それから彼は華佗の消息を尋ねまわり、すぐにとある地方の県に行ったが、そこでちょうど華佗が曹操に逮捕されるのに出くわした。あわただしさの中、非情にも華佗に薬をくれとはいえなかった。18年後、李成の病気の発作がついにやってきた。しかし薬がなかったのでついに彼は死んでしまったという。 広陵の呉普ごしん、と彭城の樊阿はんあ、は皆華佗に医学を学んだ者である。  呉普は華佗の治療法により多くの病人を救った。華佗は呉普に言う。 「人体は運動を必要とするものだ。ただ余り過度であってはならないだけである。いつも動きまわっていれば、五穀精微の気(穀物中の栄養分)は消化吸収され、血脉は流通し疾病が発生するなどと言うことはないはずである。そうであろう。たとえて言うなら家の大きな門の蝶番はいつも動いているのでさびたり朽ち果てたりはしない。これと同じ考え方である。この様に長寿であった古代の人々はすでに気功のような体を鍛える方法を作り上げていたのだよ。  いわばそれは四肢を熊のように動かし、頭を鳥のように振り、腰を伸ばし各種関節を動かし老化を防止する体操のひとつだな。五禽戯(ごきんぎ)と呼ばれるこの方法は一つは虎戯、二つ目を鹿戯、三つ目を熊戯、四つ目を猿戯、五つ目を鳥戯とよび、疾病を駆逐し、手足を軽く軽快に動くようにすることが出来るという古代人の運動法なのだよ。身体が少し不調であってもちょっと一つの動物の動きをまねるだけで体中から汗が出て、まるで体が軽くなったように感じるものだ。そうすると腹も何か自然に減ってきて何か食べたくなるというものだよ。」  呉普はこの方法を自ら行い90才まで生きたという。死ぬまで耳も目もはっきりし歯もしっかり全部そろっていたという。  一方の樊阿はんあ、は鍼灸に優れていた。凡そ多くの医者は背中と胸の間は多くの重要な臓器があり、自由に鍼をすべきではなく、ここに鍼をするときには4分の深さを越えてはならないと考えていた。しかし樊阿は背部兪穴には1寸から2寸の深さまで刺すことができ、巨闕を刺すときは5、6寸の深さに達することもあったという。これらで彼は病気を次々に治していた。(これらは実際には方向によっては大変危険であるので行ってはならない。)  樊阿は華佗に人々に有益な方剤を教えて欲しいと頼んだとき華佗は漆葉青散の薬方を授けた。これは漆葉を1升を某々14両をこの比率で用いる方剤で長くこの薬を服用していると腹中の各種寄生虫を駆除でき、五臓に気を通し、身体を軽快に保ち、ひとを白髪にさせないというものであった。樊阿はんあ、は華佗の各種方法を患者だけでなく自分にも用いていたので100才まで生きたという。漆葉(青蓁)はどこにでもあり、黄芝、地節は豊(今の中国江蘇省豊県)、沛(今の江蘇省沛県)、彭城「これ等は皆今の江蘇省の徐州一帯である」、や朝歌一帯に自生する植物である。EndFragment

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